2016.02.25 Thursday
心のあり方を変えていこう
しばらくぶりの ブログです。
日本帰国時は 本当に沢山の方々との出会いがありました。私の周りの変化にも 今までに無い客観視が出来ているのも確かです。
東京の電車に乗車しているとき、ある若者が ”GIVE&TAKEだからな”という言葉を会話の中から聴こえました。一部始終聞いていたのではありませんが、 あー私も昔は この資本主義的な考えを持っていたんだな と昔の自分を思い出しました。
こっちが与えたから、あっちからも 同じ量を求めていた私。一度目の結婚での夫婦関係、 私の問題はそれでした。
上手く行く訳がありませんでしたね。
こちらがプラスなら あちらはマイナス
あちらがプラスなら こちらはマイナス
人間は それぞれが 皆が 幸せになりたい と そう思うのは 当たり前かもしれませんが、
よく考えてみる と
安全な環境で あらゆる生き物が幸せな環境がないと 私達の始めのステップから遠ざかっていきます。
周りの幸せがあって、自分が幸せで居られる という事です。
自分の幸せを願うには、まず周りの人、動植物に傷つけず、其の周りの幸せを祈る事です。
例えば、大災害が起きた時、 皆飢えに苦しんでいるのに
自分だけ 私の所に食べる物がいっぱいあって幸せ と思い
飢え死にするのが嫌だ、不安だという想いから それを食べながら、
周りを見渡しながら
あの人達にも 同じ様に食べれると良いのに
と思う人も 思わない人も 居ます。
人間は 自分が苦しんだりするのは嫌だ
という本能、知識を持っていると思います。
自分と同じ様に
他の人も 苦しんだり 傷をおったりするのは嫌がる
という認識も 人間はちゃんと持っています。
ゆえに、他の周りの苦しみや痛みが見えて見えて、自分も気分が悪くなったりします。
しかし、稀に 自分が生きていくのが精一杯で、思いやりを持てる余裕も無く、人の痛みに無関心な人も存在しています。
物質的に恵まれている 億万長者な気分であっても、
幸せな他の人を観て、嫉妬や憎しみに移し替え 他者の不幸を 不幸せな自分の慰め として捉える心理も人間にはあるようです。
それは
心が満たされていない
ということになります。
もし 他人が不幸になって、それで気分が良くなる不幸な自分は ずっと満たされないままです。
自分の幸せは 物質的なもので測るものではなく、満たされる為に他者の不幸を願う事でもありません。
自己の幸せを願うなら
周りの生きる者全てに 幸せを純粋に 祈り
その認識は しっかり自分が放つ 見えない波動からも伝わっていくものだと信じます。
まるで
波発たぬ湖に、石を投げて 自分の波紋をつくり出す様に、
石を投げた瞬間から自分の波動(心のあり方)の型をつくり出すのです。
人の幸せを
自分の幸せの様に思えるのは 素晴らしい事ですね。
『子供の為の幸せの為に、自分は犠牲になっても どうなっても良い』という親が居るとします。
結果的に、必ず子供の人生が幸せの道へ結びつく と願う想いあっての行為だとしたら、、、
人の幸せは自分の幸せへ繋がるのです。
その時にそうじゃなかったとしても、結果が良い方向へ向かう為の行為を 信じ続ける 祈り続ける事も大切ではないかと思います。
必ず、願いや祈りというものは 結果に繋がります。
その 子供に対する愛情を想うだけで 以前までの執着、束縛、見返りという期待、怒りや悲しみから 遠ざかっていきます。
他者を愛し、思いやる事で 広い心が生まれます。
周りの対象に 敵対意識を持てば、心は穏やかになれず、周囲をコントロールし続けようとします。
幸せを願う人の対象が 家族だけではなく、社会や全ての生き物へも目を向けて祈る事が出来る様になれば、小さなことにブレず 心が平和な状態へ 向かっていきます。
日本帰国時は 本当に沢山の方々との出会いがありました。私の周りの変化にも 今までに無い客観視が出来ているのも確かです。
東京の電車に乗車しているとき、ある若者が ”GIVE&TAKEだからな”という言葉を会話の中から聴こえました。一部始終聞いていたのではありませんが、 あー私も昔は この資本主義的な考えを持っていたんだな と昔の自分を思い出しました。
こっちが与えたから、あっちからも 同じ量を求めていた私。一度目の結婚での夫婦関係、 私の問題はそれでした。
上手く行く訳がありませんでしたね。
こちらがプラスなら あちらはマイナス
あちらがプラスなら こちらはマイナス
もう、そんな風に考えるのは 止めておきましょう。
人間は それぞれが 皆が 幸せになりたい と そう思うのは 当たり前かもしれませんが、
よく考えてみる と
安全な環境で あらゆる生き物が幸せな環境がないと 私達の始めのステップから遠ざかっていきます。
周りの幸せがあって、自分が幸せで居られる という事です。
自分の幸せを願うには、まず周りの人、動植物に傷つけず、其の周りの幸せを祈る事です。
例えば、大災害が起きた時、 皆飢えに苦しんでいるのに
自分だけ 私の所に食べる物がいっぱいあって幸せ と思い
飢え死にするのが嫌だ、不安だという想いから それを食べながら、
周りを見渡しながら
あの人達にも 同じ様に食べれると良いのに
と思う人も 思わない人も 居ます。
人間は 自分が苦しんだりするのは嫌だ
という本能、知識を持っていると思います。
自分と同じ様に
他の人も 苦しんだり 傷をおったりするのは嫌がる
という認識も 人間はちゃんと持っています。
ゆえに、他の周りの苦しみや痛みが見えて見えて、自分も気分が悪くなったりします。
しかし、稀に 自分が生きていくのが精一杯で、思いやりを持てる余裕も無く、人の痛みに無関心な人も存在しています。
物質的に恵まれている 億万長者な気分であっても、
幸せな他の人を観て、嫉妬や憎しみに移し替え 他者の不幸を 不幸せな自分の慰め として捉える心理も人間にはあるようです。
それは
心が満たされていない
ということになります。
もし 他人が不幸になって、それで気分が良くなる不幸な自分は ずっと満たされないままです。
自分の幸せは 物質的なもので測るものではなく、満たされる為に他者の不幸を願う事でもありません。
自己の幸せを願うなら
周りの生きる者全てに 幸せを純粋に 祈り
その認識は しっかり自分が放つ 見えない波動からも伝わっていくものだと信じます。
まるで
波発たぬ湖に、石を投げて 自分の波紋をつくり出す様に、
石を投げた瞬間から自分の波動(心のあり方)の型をつくり出すのです。
人の幸せを
自分の幸せの様に思えるのは 素晴らしい事ですね。
『子供の為の幸せの為に、自分は犠牲になっても どうなっても良い』という親が居るとします。
結果的に、必ず子供の人生が幸せの道へ結びつく と願う想いあっての行為だとしたら、、、
人の幸せは自分の幸せへ繋がるのです。
その時にそうじゃなかったとしても、結果が良い方向へ向かう為の行為を 信じ続ける 祈り続ける事も大切ではないかと思います。
必ず、願いや祈りというものは 結果に繋がります。
その 子供に対する愛情を想うだけで 以前までの執着、束縛、見返りという期待、怒りや悲しみから 遠ざかっていきます。
他者を愛し、思いやる事で 広い心が生まれます。
周りの対象に 敵対意識を持てば、心は穏やかになれず、周囲をコントロールし続けようとします。
幸せを願う人の対象が 家族だけではなく、社会や全ての生き物へも目を向けて祈る事が出来る様になれば、小さなことにブレず 心が平和な状態へ 向かっていきます。
心を満たす 本当の幸せを見つける事が できますね。
昔は 子供の頃に 皆がもらえた飴を 自分がもらえなかった 事にがっかりしたり という事もありました。
そういう、経験は誰にでもあるでしょう。
今は
もらえなかった子供や大人ががっかりしているのを、自分が与える事に喜びを感じる様にになった 事は
少しでも成長している
という事ですね。
その逆もありました。閉店間際のパン屋さんのドアを開くと、最後のパンを買おうとしていた女の子が居ました。
あー もう終わりなんですね。と諦めていた私に
その女の子が
”あのー、良かったら これ半分にして、私と分けませんか?”
”えー 申し訳ないです! でも せっかくのお心遣いに感謝して 半分いただきます。”と 有り難く分けてもらいました。
瞬間的に そんな事が言える彼女の 心の広さに 私は感激しました。
初対面なのに、そう言う関係が出来上がる事は素晴らしい事です。
おかげで、素敵な友情関係に 現在も続いています。
そうやって、慈しみの在る社会が まだまだあるって 読んでくれる方々にお伝えしておかないと!
与える事を最大限にしようとする人は 環境と調和することを大切に思い、小さな事に左右されず、心は平穏な状態です。
逆に 本人気付いてるかどうかは ともかく、周りのものに傷つけたり、衝突を繰り返す人は
心の平静さがなく、心は いつも不安 不満 不信といった状態におちいります。
全ての生きるものに 幸せを祈る
その行為は 自分も含まれていて、祈りに 体と心が含まれている事も忘れてはいけないのです。全てが衝突せず溶けこむ様にです。
どんなに小さな事でも
祈る事は
その後の影響で 行動の選択も広がる様になり、ベストで良い状態の選択を出来る様になり、良い状態、納得のいく結果を生み出す事が出来る様になると言われます。
価値判断無く(良い悪いの基準ではなく)理想的な状態に持って行ける様に 自分が満たされる様な現在の状況になる事がベストですね。
祈る事は 満足感を増やし、客観的に物事をとらえることが出来る様になると言われます。
人間には 皆 純粋な清らかな心が どこか奥底に存在しています。
その部分に集点をあててみると 祈りは かならず 結果をもたらします。
昔は 子供の頃に 皆がもらえた飴を 自分がもらえなかった 事にがっかりしたり という事もありました。
そういう、経験は誰にでもあるでしょう。
今は
もらえなかった子供や大人ががっかりしているのを、自分が与える事に喜びを感じる様にになった 事は
少しでも成長している
という事ですね。
その逆もありました。閉店間際のパン屋さんのドアを開くと、最後のパンを買おうとしていた女の子が居ました。
あー もう終わりなんですね。と諦めていた私に
その女の子が
”あのー、良かったら これ半分にして、私と分けませんか?”
”えー 申し訳ないです! でも せっかくのお心遣いに感謝して 半分いただきます。”と 有り難く分けてもらいました。
瞬間的に そんな事が言える彼女の 心の広さに 私は感激しました。
初対面なのに、そう言う関係が出来上がる事は素晴らしい事です。
おかげで、素敵な友情関係に 現在も続いています。
そうやって、慈しみの在る社会が まだまだあるって 読んでくれる方々にお伝えしておかないと!
与える事を最大限にしようとする人は 環境と調和することを大切に思い、小さな事に左右されず、心は平穏な状態です。
逆に 本人気付いてるかどうかは ともかく、周りのものに傷つけたり、衝突を繰り返す人は
心の平静さがなく、心は いつも不安 不満 不信といった状態におちいります。
全ての生きるものに 幸せを祈る
その行為は 自分も含まれていて、祈りに 体と心が含まれている事も忘れてはいけないのです。全てが衝突せず溶けこむ様にです。
どんなに小さな事でも
祈る事は
その後の影響で 行動の選択も広がる様になり、ベストで良い状態の選択を出来る様になり、良い状態、納得のいく結果を生み出す事が出来る様になると言われます。
価値判断無く(良い悪いの基準ではなく)理想的な状態に持って行ける様に 自分が満たされる様な現在の状況になる事がベストですね。
祈る事は 満足感を増やし、客観的に物事をとらえることが出来る様になると言われます。
人間には 皆 純粋な清らかな心が どこか奥底に存在しています。
その部分に集点をあててみると 祈りは かならず 結果をもたらします。
全人類が幸せになりますように
全人類が病気になりませんように。
全人類が良い物を見ますように。
全人類 生きとし生けるものが、苦しみを持ちませんように。